今日は、ブックレビューをお送りします。実は本書を読んだのはもうひと月以上前になるのですが、読み終えた瞬間、これはぜひともブックレビューをしてできるだけ多くの方に読んでいただきたい、またアウトプットすることで、自身の中でもしっかりと消化したいと感じたものの、なかなか筆が進まず、今日になってしまいました。いざ書こうとすると、著者の思い、私が自身の体験を通じて共感したことなどが次から次へと溢れ出し、とてもまとめきれない気がして…。それだけ、本書のテーマが大きいのです。けれど、やはり本書のブックレビューがどうしても必要だと改めて自分を奮い立たせ、今こうしてこれを書いています。病気に悩む方やそのご家族、医療に携わる方々、健康維持に興味のある方、この現代に生きるすべての方に、様々な問題提起をしてくれる一冊です。
『迷走患者 <正しい治し方>はどこにある』(春秋社 岩瀬幸代著)のメインテーマはこれである。長年世界中を駆け巡り、代替療法(特にスリランカのアーユルヴェーダ)を取材してきた旅行ライターである著者が、原因不明の難病にかかり、代替療法と相反するステロイド治療を受けるところから話は始まる。
医薬品、手術、放射線を3本柱とした西洋医療(西洋・近代医学、現代医学など様々な表現があるが、ここでは本書に合わせてこう表現する。)に対し、それ以外の治療法を代替療法(伝統医療)という。例えばアーユルヴェーダ、ヨーガ、鍼灸、気功など。中医学、漢方医学も含まれることが多いが、一部の漢方薬が保険適応され、実際にわが国で医師により処方されていることから、漢方医学を代替医療に含めることを疑問視する声もある。このブログの主軸テーマであるハーブを使った植物療法(アロマテラピーも含む)も、この代替医療にあたる。ただ、以前『ハーブってどんなもの?』の記事でも触れたように、西洋医療で使われる医薬品のルーツはハーブである。ハーブから特定の成分を取り出したり、人工的に合成したりして、医薬品は作られている。その点で、メディカルハーブは他の代替医療とは一線を画している。
「ハーブ、アロマで美と健康を追求する」なんてたいそうな副題のついたブログを書いているこの私は、実は30代半ばまでは、美だの健康だのにあまり関心が無かった。健康上の問題も、美容面での大きな悩みも特に無かったのだ(小さなものはいくらでもあったけれど)。でも37歳で出産してから、めまぐるしい毎日を過ごす中で、気がつけば心身ともに疲れ果て、やれ眠れないだの頭痛がひどいだの、膝や腰が痛いだの、顔の皮膚がたるんでるだの、おっぱいが垂れてるだの、もう数えきれないほどの”不調”が出てきた。髪ひとつとっても、白髪、薄毛、パサつき、毛が異常に痩せているなどなど…あれ? 一体どうしちゃったの私? これが俗にいう「老化」ってやつなのか? 身体のあちこちが弱っている。病気でこそないが、その一歩手前。そんな感じがした。
そう、コンビニ弁当ばかりを食べて毎晩明け方まで大量のアルコールを浴び、特に何の努力をしなくとも、十分に健康で美しい。そんな年齢は過ぎてしまったのだ。じゃあ、どうするか? 病院に行ったって、病気でないうちは医師は特に何もしてくれない。だったら、毎日口にするものに気を配り、生活習慣を見直し、病気の予防をしよう。自分の心と身体の声をしっかり聴いて、医薬品ではなくもっと身体に負担の少ない方法で、自分をいたわろう。そんな気持ちにシフトしていったのは、ごく自然な流れだったと思う。そしてその気持ちにしっくり寄り添ってくれたのが、植物療法だったのだ。
19世紀の医薬品誕生をきっかけに、一度は西洋医療にお株を奪われた代替療法だが、時代の流れとともに食事や運動、ストレスケアといったライフスタイル全体を見直す傾向が生まれ、再度注目を浴びている。そして近年、西洋医療と代替療法どちらをも視野に入れた新しい医療のかたち「統合医療」という考え方が、欧米を中心に主流になりつつある。面白いのは、著者がアーユルヴェーダ治療を求めてスリランカを訪れると、西洋医療の生みの親である西洋人がたくさん施術を受けに来ているという。西洋医療の弱点を補う補完・代替医療。日本ではこういった意識はまだまだ低い。
逼迫する医療保険制度を予防・代替医療は助けることができるのに、補完医療の意識そのものが日本では希薄だ。日本の中だけにいると、西洋医療に偏っている現状にさえ気が付かない。でも外に出てみると、未開の地と思われているようなスリランカには現代医療と伝統医療が共存し、そこには西洋医療を生んだヨーロッパの人々がたくさん来ている。その彼らの国では温泉や森林浴や海辺の環境を医療に役立てる仕組みが成り立ち、自ら健康を維持するセルフケアの意識が育っているのだ。
注目すべきは、「補完医療」という言葉の定義である。一般的には西洋医療に対しての補完医療、つまり西洋医療のデメリットを補うものとして代替医療を補完医療と呼ぶのだが、著者は必ずしも代替医療のみが補完医療ではないと言う。
日常のセルフケアこそが本来の医療と考えるなら、部分的な治し方をする西洋医療は補完医療にすぎません。どちらがどうではなく、肝心なのは見方によって立場が変わってしまうという点です。ならばこれから先、互いに補完し合う存在として、医療を受ける側にとって優しいものであって欲しい。
そして、我が国でこの「相互補完医療」の意識が低い(患者本人も医療従事者も)ということは、病気に悩む患者にとって大きな弊害となる。病気を治す、あるいは症状をやわらげる機会を減らしてしまうのだ。医療の知識に乏しい患者の立場では、自分が良いと信じて実行している代替療法の話を、担当医師にすることさえ躊躇してしまう。本書の中でも、著者が温泉で湯治した話を担当医師に告げたところ、鼻でかすかに笑われたというシーンがある。
温泉にしろ、薬効成分のある植物にしろ、先生たちが信用しない一番の理由は信頼できるエビデンスがないことだろう。でも効かないというエビデンスだって、ないじゃないか。(中略)西洋医療だけでは助けてもらえないから、みんな自分に効くものを探す。今の医療ですべてを治せるというなら、否定すればいい。でも、そういう状況じゃないじゃないか。だから探しているのに、なぜ悪者のように扱うのか? 自分が病気になってどん詰まりになったら、ほかに試してみたいとは思わないのか?
形にならないものは信じにくい。つい、西洋医療のような分かりやすい即効性を求めたくなる。だがストレスフルな現代、数値だけでは測れないものがたくさんある。
もちろん著者は、代替療法だけが良いものだと言っているのではない。
やっぱり、客観的にはそう思われてしまうのだ。スリランカの代替医療アーユルヴェーダを紹介してきた自分がステロイド? これまでも体調が悪いというだけで「アーユルヴェーダを受けているのに、なぜ体調が悪くなるの?」と聞いてくる人もいて、そういうことの積み重ねは、自分の病気を人に言いづらくしていた。受けていたって悪くなるときはあるのだ。(中略)アーユルヴェーダは万能じゃないのだよ。
西洋医療と代替療法。どちらが優れているとか劣っているとかいうことではなく、それぞれに長短があり、得手・不得手がある。治せる疾患も方法も、まるで違う。西洋医療と代替療法、どちらか一辺倒でなく、ふたつを上手に組み合わせ、あるいは使い分けることができれば、選択肢も可能性もぐっと広がるのだ。
ドイツで独自の植物療法を確立し「近代自然薬の父」と呼ばれるクナイプ神父はこう言っている。
「病気の緊急時に化学薬品の使用を放棄するのは愚かなことである。」
そして現役の医療従事者の方々には、ぜひ患者の声に耳を傾け、身体だけでなく心にも寄り添っていただきたいと願う。病気と闘うには、信頼や納得といった、目に見えないものの力がとても大きい。皆さんの助けがなければ、患者ひとりではいくら頑張っても病気を治すことは出来ないのだから。
さまざまな治療法があり、情報があふれ、医師におまかせの時代から患者主導の時代へと変わり、病気があっても長生きできる、私たちはそんな時代に生きている。こんな時代だからこそ何を選べばいいのかと悩むのであり、だからこそしっかりと自分自身で見極めていかなければ後悔することにもなりかねない。
著者が、心を通い合わせることができる医師と出会い、西洋医療を受け止め、死の恐怖に直面しながらも、持病を意識せずに暮らすことの大切さに気づき、ついには未来を夢見る力を得るまでを描く体当たりルポ。納得できる治療法を求め東奔西走する姿には、つい自身や家族の姿を重ね、胸を打たれる。
自身や周囲の大切な人が大病を患い、失意の中で選択を迫られた時、必ずや案内星となるであろう1冊。良書。
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